後悔はあるで御座る。
やり直しなど幾度望んだかわからぬ。
この結末を未来永劫、匙は呪ゐ続けるであろう
なれど、其れとはいえ───
せっしゃ、間違ゑてなどゐのう御座った─
お初に御目にかかる
佐治水軍衆四代目棟梁匙幸村と申す┏●
主にゲーム実況などを上げる予定で御座る
▼城▼
https://twitter.com/odakashin_saji
――――――――――――――――――
真名
佐治一成
尾張佐治氏は、知多半島の大野を中心とする西海岸地域を領する一族で、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いていた。その立場は織田氏に従属的な家臣であり、独立的な国衆で、父の信方が永禄初年頃に信長の妹・犬を室に迎えていることから、織田一門格になる。
父・信方は織田氏による伊勢長島攻めに従軍して戦死(天正2年(1574年)9月28日とも、元亀2年(1571年)ともいわれる)したため、幼少の一成が家督を相続する。
近江国小谷城主・浅井長政の娘・江を妻に迎えたといわれており、後に離縁したといわれている。
天正10年(1582年)の本能寺の変による信長横死後、その次男・織田信雄に仕えるが、羽柴秀吉と徳川家康・信雄の敵対から発生した天正12年(1584年)3月の小牧・長久手の戦いにおいて、合戦後に家康が三河へ帰陣する途中の佐屋街道の渡しにおいて船を提供し、秀吉の怒りを買い大野を退去したという(佐屋の渡一件)。小牧・長久手後にも一成の大野支配であるが、天正13年(1585年)の頃には大野城を撤退し、歴史から消える
敗北者として成り果てたのである。
その後、伯父・織田信包の領する伊勢へ逃れてその家中にあり(丹波・柏原藩筆頭家老など)、後に信長と側室・お鍋の方の娘で従妹にあたる於振を正室に迎えた。
寛永11年9月26日(1634年11月16日)、京都にて死去した。享年66。墓所は龍安寺にある。
御主も佐治水軍衆に入らぬか?
佐治水軍衆はいつでも御主を待っておるぞ😎